甘く優しく私を縛って
041:震える身体を掴んで抱きしめて、耳元に囁いた
記憶探しを兼ねた探索は路地裏や界隈にまで及んだ。少女の導きで非合法団体に所属を決めてもこの癖だけは治らなかった。所属団体が非合法であることも手伝って、以前より頻繁になっているくらいだ。失って困る過去も家族もライにはない。だからライは命のやり取りを平然と行うこの路地裏が好きである。リフレインの横行や、掏りやひったくり、喧嘩に負ければ五体満足でいられる保証さえもない。それでもライは何故だか喧嘩に負けないし、少しくらい目立った方が誰かに見出してもらえるかもしれないという儚い希望を胸にうろうろと流離う。それでも時間が来れば団体のねぐらに帰るし、団体を統べるものからの注意もないからかまわないのだろうと、消極的な容認であるとライは受け取っている。
汚水に靴底を濡らしながら塀沿いに歩くうちにいつの間にか運河に沿った道になっている。脚を浸して茫洋と虚空を眺めている男の傍には注射器が転がっている。よくある光景だ。何処の誰とも知らない輩が男の懐を探っている。夢の世界にトリップしている男に一向構う様子はない。人影はごそごそと蠢いて消えた。ライはその男を素通りして歩を進める。今のライはただの一少年である。学園と団体の制服のどちらも着用していない。衣服から身元が割れる線は消しておいている。濃紺のジーンズに脚を通し、釦で留めるタイプの白いシャツを引っかけている。裾とズボンつりは飾りのようにぶらぶらさせて外している。小奇麗な身なりはカツアゲやタカリの標的になりやすい。
「珍しいとこで会うな」
ひょこりと振り向いたのは卜部だ。卜部も団服や軍服は来ていない。ライと似たり寄ったりの恰好であるが、四肢が嫌味なほど長く長身だ。ライより着崩されて釦も一つ二つほどしか留めていない。肌蹴た襟や引っ張り出されたままの裾は卜部のここでの行為を表してもいる。
「…こっちこそ意外なんです、けど」
卜部は歩調を合わせてライの隣に並んだ。互いに何も言わなかったが歩く道は同じだ。沈黙を気づまりに感じだした頃卜部が会話の口火を切った。
「記憶がねェんだって?」
「…えぇ、まぁ。プライベートの方が全く判らなくって」
ライが記憶喪失なのは団体の者なら誰でも知っている。むしろこの事実を広めて俺の知り合いだと名乗り出る輩を待ちたいくらいだ。卜部の小さな茶水晶がきょろりとライを見たがそれだけだ。群青から薄氷へ、ライの瞳はけばけばしい広告灯の明かりによって色を変える。亜麻色の髪は無造作に整えられているだけで、しかも光を乱反射して金髪や銀髪に見えた。
「あんたァいろんな色になるなぁ」
「いろ?」
「髪と目の色がだよ。ネオンで色が変わるなんてなァ聞いたことねぇぜ」
そのあたりからの検索はかけたのかと遠回しに訊かれてライは首を振った。ライ自身が目や髪の色を外的刺激によって変化させる人物に会ったこともなければ、聞いたこともない。卜部は気負いも気落ちもなく、まァそうだろうなァなどとほざく。特異体質は外見で判るものであれば噂にくらいは昇る。
「なんであんたこんなとこうろついてンだ。ご主人さまに叱られたって知らねぇぜ」
「あなたこそ保護者に怒られてもフォローしませんからね」
「言うねェ」
カタカタと卜部は肩を揺らして笑う。笑う際に少し猫背になるのは癖のようだ。肩幅があるのに体自体は長身で痩躯であるからひょろりとした印象が先立つ。イレヴンという呼び名に変えられた日本人の平均は軽く超えている。手脚は厭味で無意味に長いし、腰も細い。それでも戦闘機の腕前は一流で古参の仲間内での連携もこなす。腕前は標準以上だ。ひょろりとした外見に騙されて喧嘩を売って返り討ちになった輩は数知れない。本人の弁であるから話半分としても納得できるだけの実力と見た目である。
卜部が隠しから煙草を取り出す。ついでにライも一本失敬する。燐寸を探し出した卜部が顔をしかめたがライは煙草を咥えたまま、卜部が火をつけるのを待っていた。煙草に火をつけた燐寸を手首の返しで消火してから放り捨てる。その卜部の襟を掴んで思いっきり強く引き寄せた。口付けかと思う体勢でライは煙草の先端を接触させて息を吸う。じじ、と火が燃え移る。ライはあっさり離れて慣れた仕草で煙草を吸った。卜部だけが真っ赤な顔で固まっている。
「キスでもすると思いましたか?」
細くて白い指先に煙草を挟んで紫煙を吐いたライがうそぶく。ライが知る限りでは卜部は四聖剣の中でもすれている。仙波と藤堂は軍属一本であることが判るし、朝比奈と千葉はその藤堂一本で生きてきたことが見てわかる。だが卜部は違う。藤堂の命令は聞くし、仙波や千葉、朝比奈と言った旧知ともうまくやる。だが、こうして路地裏に顔を出す時点で彼らより世間ずれしているとみて間違いないだろう。逃走生活が長かったというから何処を寝床にしていたかすらあやしいものがある。
ライはそのまま紅く熟れた唇を寄せて卜部の頬へ口付けた。卜部が一瞬固まったが、すぐにはぁッとため息をつく。それはどこか保護者から見た子供をなだめるような眼差しにも似て。
「お前さん、何があった」
ぴく、とライの肩が震えた。ライはにこりと笑う。口の端を吊り上げてそれは嘲りのような嬉しさのような悔しさのような、癇症的な笑みだった。口元が痙攣する。何気ない微笑みをつくろうとしてしくじった。
「なんで、そう思うんですか」
「ツラが慰めてほしいって言ってるぜ。煙草もキスも、気づいてって言ってるようにしかみえなかったンだよ」
「反抗期じゃないんですから」
「形は思春期じゃねェかよ。なンかあったろう。言われたかされたか。あんたの性格からいって言われたな。されたらその場で解決してるだろうし引きずる性質じゃねェからな、あんたァ」
図星だった。ライは笑いながら震える指先で煙草を吸った。正規品であるから化学物質が正当な量だけ含有されている。それでもライの動揺は隠せなかった。
「言われました」
記憶がねェっていいなぁオレも人生忘れてやりなおしてえ。そしたらもっといい女捕まえてよお。軽口であることは判ってた。それでも。赦せなかった。お前は知らないだろう。自分がない暗渠を。砂に埋まっていくように何もない虚ろがぽっかりと口を開けて、その口が広がっていつしか自分を呑みこむんじゃないかと言う恐怖を。頼りに出来る人もいない。知己さえいない孤独と確立できない自己の不安定さと。
自我と言う根底を失った危うさと不安と孤独と恐怖とを。
ライはその男を殴り倒した。人望も篤く暴力沙汰に消極的な扇がすぐに気付いてライと男を引き剥がした。冗談に決まってんじゃねーかよと怒鳴り散らす男を前にライはただ、フーフーと獣のように荒い呼気を鳴らしていた。羽交い締めにした扇を振り払って路地裏へ直行した。
ライは暴力沙汰に発展したとだけ卜部に伝えた。卜部はふゥンと言って煙草を咥えたまま離そうともしない。卜部は十分な間をおいてからため息をつくと同時に紫煙を吐いて、煙草を踏み消した。
「それであんたァさっきから震えてンのか」
言われて初めて気づいた。指先がカタカタと笑っている。貧乏ゆすりのようにその場しのぎの解消を試みている。煙草を持つ手が震えてとり落とした。拾おうかと屈む前に卜部の靴先が踏み消す。
「やめとけ。体壊すぜ」
「自分だって吸ったくせに」
「俺はもう毀れる余地がある成長はしねェからな。何もしなくても壊れていくだけだからいいンだよ」
「朝比奈さんに実はもう成人してるかもねって言われましたけど」
「酒飲むときに言えよ。煙草喫みは後を引くから体にや良くねェ」
それにな、泣きそうなの誤魔化すなよ。びくりとライが震えた。
「何処のアホだかしらねぇがそんな軽口どうして聞き流せねェんだよ。馬鹿が馬鹿言うなぁ当たり前だろ馬鹿なンだから。お前さん自身が気にしてンのか」
ぱん、と乾いた音がしてから卜部は叩かれた頬を指先でぽりぽり掻いた。
「――な…みんな、みんな気軽に記憶がないって」
記憶がないっていいなぁ。俺も忘れたいことあるよ。一からやり直すっていいよなぁ。
「何度も何度も何度も何度も! 僕は僕を取り戻したくて仕方ないのにみんな、生まれなおしたみたいでいいなって! 生まれなおしなんかじゃない。仲がよかった人に冷淡に接しているかもしれないし、自分だって確立できなくて、戦闘機の操縦ができるから僕はここにいられるんじゃないかって、自分の価値さえ判ら、なくなって――」
僕が生まれた理由さえも僕は忘れてしまったんだ!
人の行動原理は基本的に経験、つまり記憶に由来することが多い。作戦立案の際にライの意見は第三者的な見地でよいと褒められる。だがそれは、ライがどこにも属していないという証でもある。ひょっとしたら僕はここの団体の敵側の人間かもしれない。そう思う。可能性がないとは言えない。もしそうだったら? そう思うだけで喉を掻き切りたくなる。自分が判らない。何故戦闘機を操縦できるのか。何故戦闘の作戦を立てられるのか。時折断片的に思い出す流血と肉片と人の焼ける匂いと。昂揚と無力感。ライはいつも戦っている。
「そうだな。戦闘機に乗れるってなぁこの団体じゃあ重要事項だ」
ぐさりと、刃が突き刺さる。
「でもそれがあんたの力だ。あんたの理由だ。理由が判らねェなら新しく作れ。友が欲しいなら新しく作れ。忘れちまったもんをいつまでもこだわったって仕方ねェ。そのあんたを認めて団体に所属を赦すやつがいる。じゃあそれでいいじゃねェか。力があるってェ認められたってことだ。あんたの力が認められたんだ」
「なんだか、抱きたいこと言ってくれますね」
「おい抱きたいてなンだコラ」
ライは飛びかかるように卜部にしがみついた。胸に顔を押しつけてぐしぐしと洟や涙をなすりつける。腕をまわして細い体を抱きしめる。
「汚ェなァ」
拒絶されるかも。だが卜部が逆にライを抱きしめ返した。ぎゅうと強い男の腕がライを抱擁する。
「そうだよそれでいい。ガキはガキらしく欲望に正直になるもンだ」
あんたはごちゃごちゃ考えすぎなンだ。相手がどう思うかなんて糞の役にもたたねェ。敵方の心理戦ならともかく味方と心理戦展開してどうすんだよ。耳朶で卜部が囁く。優しい、言葉。無骨で乱暴で配慮もない。それなのに卜部の言葉はライの深部へ浸透していく。あぁ、やっぱり。ライは落涙に腫れた目元のまま顔を上げて言った。
「あなたが好きです。抱かせてください」
卜部はライを抱きしめたまま爆笑した。
「そうだよ、はなッからそう言やあいいンだよ」
卜部の手がライの頬を掴んで上向かせる。唇が重なった。ライは積極的に舌を絡めた。ぴくぴくと小刻みに震える卜部が愛しかった。初めて感じた感情。自分を見てほしい。自分を好きになってほしい。自分に――抱かれて、欲しい。
「すきです」
僕の能力を認めてくれたあなたが。僕の存在を赦してくれるかもしれないなんて思ってしまう。
「ライと言う名前しか持たない僕でも好きになってくれますか? 抱かれてくれますか?」
卜部はライを抱きしめたままでクックッと肩を揺らして笑った。
「当たり前だ。俺はな、相手の過去なんざァ気にしねェ性質なンだよ」
「今のあんたが好きだ。だから抱かれてやるよ」
そのまま二人は服を脱いだ。路上の抱擁などこの路地裏ではありふれている。卜部の目線の先に袋小路を見つけて二人はそこへなだれ込んだ。シャツや下着をもっていかれては困る。卜部は汚泥の閨にも文句を言わず脚を開いた。ライは不慣れに卜部を抱いた。何処で覚えたが聞きかじったか、同性同士の交渉についての知識があった。経験と言っていいかもしれない。また一つ自分が判った。自分が閨に精通していること。
「ありがとう、巧雪さん」
ライは組み敷いた卜部の耳元で囁いた。
《了》